質乃蔵(しちのくら)の児玉です。
かつて日本は、ヨーロッパにおいて「黄金の国ジパング」と呼ばれていました。なぜこのような名称で広く知られるようになったのでしょうか。その由来は、日本の歴史をたどることで明らかになりました。
今回は、日本が黄金の国ジパングと呼ばれるようになった由来について解説します。
目次
ヴェネツィア共和国の商人であり、冒険家としても知られるマルコ・ポーロの「東方見聞録」。その文献の中で日本は莫大な金を産出する国だと紹介されたことで、ヨーロッパを中心に「黄金の国ジパング」と広く呼ばれるようになりました。
アジア諸国を旅したマルコ・ポーロでしたが、生涯日本に上陸した事実はありません。「東方見聞録」における日本に関する描写は、ポーロが中国の商人から見聞した内容を口述したものとして記録されています。
それではなぜ中国は、日本に金が豊かにあると考えていたのでしょうか?一説によると、日本が遣隋使を派遣した際に唐(中国)との交易で大量の砂金で支払っていたことが理由だと言われています。さらに、交易が盛んだった時代に金箔一面で覆われた中尊寺金色堂を岩手県に建立した話が中国の商人に伝わり、日本は黄金を大量に産出できるのではないかという幻想が広がっていきました。
その噂話は広州に滞在していたイスラム商人にも伝わり、のちにイスラムで黄金の国を指す「ワクワク伝説」として黄金伝説が派生しています。「ワクワク」の語源は日本の古名「倭国」に由来する説が有力です。こうした中国やイスラム商人が持つ日本への幻想がポーロの「東方見聞録」を通じてヨーロッパ全土に広まり、「黄金の国ジパング」という呼び名が定着したと考えられています。
「東方見聞録」で日本に関する描写は、文献内で三章にわたって紹介されています。ジパングに関して伝えられる内容は、住人は大量の金を所有しており、島の国王が所有する宮殿は窓や床などすべて純金でできていると紹介しています。さらに当時貴重な香辛料だったコショウや真珠・宝石などの財宝も豊かにある理想郷として描いています。
日本と周辺の島々の宗教・風俗についても触れられており、偶像崇拝(仏教)が信仰されていることや埋葬の風習などの概要が述べられています。その中の一説に、「ジパングでは食人の習慣がある」と荒唐無稽な表現も見られます。これはマルコ・ポーロが口述に基づいた内容を、共同著者のイタリア人小説家ルスティケロ・ダ・ピサが他の伝聞や逸話を参考に盛り込んで書き綴ったためです。
日本からたくさんの黄金が産出されると噂されてもヨーロッパに侵略されなかった理由は、これらの「食人文化」の記述があってヨーロッパで恐れられたことで難を逃れたと言われています。
「東方見聞録」で描かれた黄金の宮殿のモデルは、岩手県平泉にある中尊寺金色堂だと言われています。日本にある「黄金の宮殿」と聞くと、京都の金閣寺を思い浮かべる人も多いかもしれません。しかし、金閣寺が建立されたのは「東方見聞録」が世に出てから100年後で時代背景と合いません。
金色堂はその名の通り、天井や壁一面が総金箔貼りの豪華絢爛な造りで知られています。金色堂のある奥州では、当時豊富な砂金が採掘されていました。豪族の奥州藤原氏は、その豊富に採れる砂金を活用して、朝廷や宋(当時の中国)に莫大な量の金を献上したと言われています。
宋との交易が続く中、奥州藤原氏が中尊寺金色堂を建立した話は海を渡って中国の商人にも伝わりました。その噂話がやがてマルコ・ポーロにも伝わり、後の「東方見聞録」に取り上げられたのは先述の通りです。
豊かな金に恵まれた平泉の栄華を反映する中尊寺金色堂の美しい姿は、1951年に国宝建造物第一号に指定。2011年には、中尊寺金色堂を含む「平泉の文化遺産」として世界文化遺産に登録されています。
歴史を振り返ると、日本は世界の産金量が少なかった時代に大量の金を流通させていたことで黄金の国ジパングと呼ばれるようになりました。限りある資源である金に、世界中の人々が魅了させられるのはいつの時代も変わりません。その希少性から、今後さらなる価値が上がるかもしれません。
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